盲人とはり 「江島神社にて想いをはせる」その1
~ 杉山和一への感謝を込めて ~
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目次
江の島にて
私は今、神奈川県の藤沢市 江島神社に来ている。
ここに来た目的は2つ。
1つは、江戸時代・5代将軍綱吉の時代に生きた盲人はり師 杉山和一(すぎやまわいち)の墓参り。
そして2つ目は、旨い魚をアテに酒を飲むことだ。
杉山和一という人
江戸時代初期の1610年、伊勢国の亀山(現在の三重県津市)に武士の子として生まれ、名を養慶といった。
養慶はわずか十歳で天然痘という感染症を患い、視力を失った。
これは私の想像でしかないが・・・
武士の家に生まれた傷者、おそらく「金は出してやるから好きなように生きろ(生きようが死のうがお家には関係ないこと)」というような扱いを受けたのではないだろうか。
養慶は行く末を案じ、悩みに悩んだ。
そして、当時盲目の鍼医師として名をはせていた山瀬琢一(やませたくいち)に弟子入りするため、17歳で江戸に出た。ここで和一という名を与えられる。
将軍お抱えのはり師、そして総検校という当時の盲人に与えられる最高位を得るまでに達した杉山和一の話は、ここから始まるのである。
現代に伝わる管鍼法
現代、日本におけるはり術の主流は管鍼法(かんしんほう)である。
はり施術を受けた経験がある方にはご存知の方もいらっしゃると思うが、
はりをうつ時には、
はりよりもわずかに短いプラスチック製あるいは金属製の管にはりを通したものを皮膚に立て、
管からわずかに飛び出したはりの頭を軽く指でたたく。
そうすることで、まっすぐ、痛みなくはりをうつことができる。
今では誰もが当たり前にやっていることでも、必ず最初にやり始めた人間がいる。それが杉山和一である。
杉山和一は、最初に鍼管を使った刺法を行った人なのである。
劣等生だった和一が管鍼法を考案するまで
江戸で山瀬琢一に弟子入りした和一だったが、実は劣等生であった。
いくら教えられてもはりの技術は上達しない、記憶力も悪く、師匠からも破門を言い渡されるほど。
あんまではぴか一の実力を持ちながらも、どうしても痛くないはりが打てなかった和一は、里にもどることを進められた。
修行の場を去るその日、師匠の娘から芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島弁財天のご利益の話を教えられる。
和一は江の島岩屋にこもり、生死をかけた21日間の断食修行を決意。
しかし、その修行中には何も得ることができなかった。
いよいよ海に身を投げて・・・というその時、
足元の石につまずいて転び気を失う。
目が覚めた時、手に掴んでいた丸まった広葉樹の葉に包まれた松葉。
ここから管鍼法の発想を得たという。
先人の志・苦悩・研鑽
志を高く持てば持つほど、現実は容赦なく圧倒的に解決が難しい難題を突きつけてくる。
当時、身体に障害がある者には「社会に生かされる」という選択肢はなかったであろう。
帰るに帰れぬ、なんとか生きなければ死ぬしかないというような苦悩と葛藤の中にいた杉山和一のその時の心情を察すると、心臓を掴まれているかのような苦しさと痛みを感じる。
そのような厳しい時代の中で、苦悩と研鑽を重ね、
刺激に決して強くない日本人にも適したはりのうち方を今に残してくれたことに感謝するばかりである。
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